大阪地方裁判所 昭和56年(ワ)7766号・昭55年(ワ)2663号 判決
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【判旨】
(1) 訴外田頭忠雄は、昭和二年一〇月ころから大阪で「蘆月」という営業上の名称で個人営業による料理店営業を始め、昭和四〇年にこれを法人組織にして原告会社を設立し、みずから代表者として右営業を引き継ぎ、営業上の名称「蘆月」をそのまま使用して現在に至つたものであり、昭和二年の創業以来「紙なべ料理」だけを営業品目として取扱つてきた。
(2) 「紙なべ料理」は、昭和二年ころ、田頭忠雄が亡母田頭スエコとともに研究・作りあげたもので、鍋状の金網の中に特殊加工した和紙を敷き、この中にだしを入れて直接火にかけ、魚・野菜を入れていわゆる「沖すき」(魚すき)風に食べる料理のことであり、鍋に使用される和紙が材料のあくを吸収するため、それぞれの材料の持味をこわさず、あつさりとした繊細な味を味うことができる、というものである。
(3) 田頭忠雄の経営する料理店「蘆月」の「紙なべ料理」は、昭和三年、当時の文土松崎天民により雑誌「中央公論」誌上で紹介され(文中では「紙鍋」と表示)、昭和七年八月一日、商標権者田頭忠雄として「紙鍋(かみベカミナベ、KAMINABE)」という文字標章が商標登録された。その後、戦争中営業が中断されたこともあつたが、戦後営業が再開されると、「蘆月」の「紙なべ料理」は、昭和二四年、地元の「大阪新聞」に紹介記事が掲載され、昭和二八年以降、「大阪新聞」や旅行案内・郷土案内・料理店案内書等で紹介され、昭和三〇年、特に昭和四七年以降にはテレビでも物珍しい料理として紹介、放映されるようになつた。この間、料理店「蘆月」には、著名な文化人・芸能人等が顧客として多数訪れた。しかし、原告がみずから積極的に宣伝・広告することはなかつた。
(4) 原告のパンフレット・案内状・案内図・マッチ・封筒。包装紙には「紙なべ(紙べ)」という文字と「蘆月」という文字とを前者を後者よりやや小さく表示して一体化した「紙なべ蘆月(紙べ蘆月)」という文字標章が印刷・記載されているものがあり、原告会社代表者宛のハガキ、原告宛の取引先の請求書、近隣のスナック経営者の名刺には原告を「紙なべ」と表示したものがある。原告方店舗で飲食した有名人が記載したサイン帳若しくは色紙には、「蘆月さんへ」或いは「紙なべさんへ」と表示した例が僅かにあり、前記原告の「紙なべ料理」を紹介した新聞・本には、蘆月の紙なべ料理が有名である旨記載されている。原告は、肩書本店所在地にある「蘆月別館」と大阪市北区梅田一丁目三番一の三〇〇号大阪駅前第一ビル三階にある「蘆月本館」との二店舗を有しているが、創業以来、右のほかに店舗を持つたことはない。
(5) 一方、被告瓜生は、昭和二八年に肩書住所で営業名称「利休」として、料理店営業を始めてかに料理などをし、昭和二九年に「紙なべ」の看板を掲げて「紙なべ料理」も始めるようになり、昭和五三年六月から被告脇谷(義弟)も経営に参画するようになつて現在に至つている。被告ら方料理店「利休」で提供する「紙なべ料理」は、丸いお盆形のなべ敷のような形状に作つた金網の中に和紙を敷き、魚・野菜などを入れて火にかけるものであり、昭和三〇年ころ以降テレビで紹介。放映され、被告ら方料理店「利休」には、著名な政治家・文化人・芸能人等が顧客として多数訪れた。
(6) 田頭忠雄は、「利休」が「紙なべ」の看板を掲げて営業をしていることを知り、昭和三二年ころ被告瓜生を商標権侵害の被疑事実を告訴し、更に昭和三三年被告瓜生を相手方として商標の権利範囲確認審判請求をしたが、前者については不起訴、後者については昭和三五年三月八日審判請求却下の審決がなされた。被告瓜生は、右告訴・審判請求がなされた後の一時期、看板の「紙なべ」を他のものに取替えたこともあるが、右審決後は「紙なべ」の看板を掲げて現在に至つている。昭和五四年になつて、原告代表者は、文芸春秋発行の「新・東京いい店うまい店」で被告ら経営の「利休」を紹介した記事のうち、「この風変りの趣向は、やはり大阪が本家で、北新地の『芦(ろ)月』の店が東京にもある。」との記載部分のあることを知り、文芸春秋に対して右記事の訂正を申入れるとともに、被告瓜生に「紙なべ」の標章使用中止を要求したが、同被告に拒絶された。なお、東京都内には、被告ら営業の「利休」以外にも「紙なべ」の看板を掲げて「紙なべ料理」を提供する料理店が少なくとも一店は存在する。
右のとおり認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
ところで、被告らの料理店「利休」は東京都に所在するのであるから、原告が不正競争防止法一条一項二号に基づき請求の趣旨記載のような差止請求等をなしうるためには、「紙なべ」という表示が、少なくとも「利休」の所在する東京都を中心とした地域において、原告の営業を表示するものとして同号所定の「広ク認識セラルル」すなわち周知となつていたことが必要である。
そこで、前認定の事実に基づき、右周知性の存否について検討する。
原告経営の料理店は大阪市に所在するのみであるから、東京都及びその周知に居住する一般需要者(以下「東京の需要者」という)が日常的若しくは恒常的に原告経営の料理店を利用する機会の少ないであろうことは論ずるまでもない。また、原告の提供する「紙なべ料理」がマスコミ等で紹介されているが、まず、新聞についていえば、東京の需要者の眼に触れることの少ない地方紙であり、出版物(本・雑誌等)の中にはその内容からして東京都を含め全国的に販売されたと推認されるものもあるが、これらの発行部数がどの程度であつたのか、東京都及びその周辺でどの程度販売されたのかは明らかでなく、更に、放映されたテレビ放送中には全国ネットのもの、東京都を含む関東地方に放映されたものがあるものの、放映の回数は明らかでなく、原告の主張によるも少なくとも年一回程度のものであるうえに、しかも、原告みずから積極的に宣伝・広告をしたことがないのである。そして、原告経営の料理店に顧客として訪れた有名人中には東京都在住の者もかなりいると推認されるが、そのことは、当該有名人及びそれと近い関係の人々の間で原告の提供する「紙なべ料理」が知られていることを示すことはあつても、東京の需要者の多くのものに広く知られていることを示すものではない。
一方、東京都では、被告らの料理店「利休」が昭和二九年に営業品目の一つとして「紙なべ料理」を始め、テレビで紹介・放映され、有名人が多数顧客として同料理店を訪れており、また同料理店が東京都に所在するのであるから、東京の需要者のうちの相当程度の者が同店を顧客として訪れているものと推認され、これに「紙なべ料理」の特異さ・物珍しさを考えあわせると、被告らの営業する「紙なべ料理」は、東京の需要者の間でそれなりに有名になつていたものと推認される。そして、東京都には被告らの「利休」のほかに「紙なべ料理」を営業品目とする他の料理店が存在するのである。
右認定、説示からすると、原告会社の「紙なべ料理」は、被告瓜生が「紙なべ料理」を始めた昭和二九年当時はもとより、本件口頭弁論終結当時においても、大阪市及びその周辺地域においてはともかくとして、少なくとも、東京都及びその周辺地域において広く知れわたつていたということはできず、まして、「紙なべ」という表示が、右時点において、原告の営業を表示するものとして同地域で周知になつていたと認めることはできない。
<証拠>のうちには、周知性について原告の主張に副う部分もあるが、これらの記載、供述のみでは、「紙なべ」が原告の周知営業表示となつていたとの原告主張事実を認めるに十分なものではなく、結局、右記載、供述は採用できないし、他に右主張事実を認めるに足りる証拠はない。
(金田育三 鎌田義勝 若林諒)